
政府追悼式 秋篠宮さまのお言葉/安倍晋三首相の式辞/遺族代表の言葉

2011年3月11日、東北地方を中心に東日本を襲った未曽有の地震とそれに伴う津波により、2万人を超える死者および行方不明者が生じました。震災発生後、刻々と伝えられる現地の状況と押し寄せてくる津波の映像は、7年を経た今でも決して脳裏から離れるものではありません。ここに一同と共に、震災によって亡くなった人々とその遺族に対し、深く哀悼の意を表します。
大震災からの7年間、被災地において、人々は幾多の困難を乗り越え、手を携えて、復興に向けての努力をたゆみなく続けてきました。こうした努力を支援するため、国や全国の自治体、そして国内外の多くの人々が、さまざまな形で力を尽くしてきました。
その結果、住宅の再建や高台移転、産業の回復、生活環境の整備、防災施設の整備など多くの進展が見られました。また、原発事故により避難を余儀なくされた地域においても、帰還して生活を再開できる地域が少しずつ広がってきております。多くの悲しみや困難の中にあった子どもたちも、未来に向けてたくましく成長しています。
しかし、その一方では、今なお多くの被災者が、被災地で、また、避難先で、依然として不自由な生活を続けている厳しい現実があります。とりわけ、帰宅可能な地域が広がる中、いまだに自らの家に帰還する見通しが立っていない人々も多いこと、基準に照らして放射線量の問題がない場合であっても、農林水産業などに影響が残っていることを思うと、心が痛みます。さらに、避難生活が長期化する中で、高齢者をはじめとする被災者の心身の健康のことは、深く心に掛かります。
困難な状況にいる人々、一人一人が取り残されることなく、健やかで平穏な生活を送ることができるよう、また復興の歩みが着実に進展していくよう、これからも国民が心を一つにして被災した地域や人々に末永く寄り添っていくことが大切でありましょう。
東日本大震災の大きな犠牲の下で、私どもは日ごろの防災訓練や防災教育、そして過去の災害の記録と記憶の継承がいかに大切であるかを学びました。この教訓を決して忘れることなく、私たち皆が防災、減災の心を培うとともに、それを次の世代に引き継ぎ、災害の危険から多くの人々が守られることを心より願っております。
今なお困難を背負いながらも、復興に向けて日々努力を続けている人々に思いを寄せ、一日も早く安らかな日々が戻ることを皆で祈念し、御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。
うむ。
天皇皇后両陛下ではなく
まだご退位してないよね・・・?
皇太子皇太子妃両殿下でもなく
まだ静養されてないよね・・・w
秋篠宮両殿下のご臨席だったのか。


両陛下は発生5年の節目だった2016年まで、政府主催の追悼式に毎年出席していたが、昨年からは、秋篠宮ご夫妻が足を運び「お言葉」を述べている。
発生10年の節目となる21年には、新天皇、皇后となっている皇太子ご夫妻の出席が検討されることになるという。
はぁ。
>両陛下は発生5年の節目だった2016年まで、政府主催の追悼式に毎年出席していたが、昨年からは、秋篠宮ご夫妻が足を運び「お言葉」を述べている。
ふむ。
>発生10年の節目となる21年には、新天皇、皇后となっている皇太子ご夫妻の出席が検討されることになるという。
はぁ。
あとは全て秋篠宮殿下・妃殿下におまかせなのかな。
もう、摂政みたいな〜

それにしても、記事タイトル、おかしくね?
・・・記事見出しに『両陛下 発生時刻に黙とう』必要すか?
せめて、
政府主催の追悼式に秋篠宮ご夫妻ご臨席、両陛下は発生時刻に黙とう
じゃねーの?

もはや、ご公務は秋篠宮様抜きではかなわないのだから、
マスメディア、おまいらはね、
ちったー、気をつかえよ!



政府追悼式 秋篠宮さまのお言葉/安倍晋三首相の式辞/遺族代表の言葉
◆秋篠宮さまのお言葉 全文
2011年3月11日、東北地方を中心に東日本を襲った未曽有の地震とそれに伴う津波により、2万人を超える死者および行方不明者が生じました。震災発生後、刻々と伝えられる現地の状況と押し寄せてくる津波の映像は、7年を経た今でも決して脳裏から離れるものではありません。ここに一同と共に、震災によって亡くなった人々とその遺族に対し、深く哀悼の意を表します。
大震災からの7年間、被災地において、人々は幾多の困難を乗り越え、手を携えて、復興に向けての努力をたゆみなく続けてきました。こうした努力を支援するため、国や全国の自治体、そして国内外の多くの人々が、さまざまな形で力を尽くしてきました。
その結果、住宅の再建や高台移転、産業の回復、生活環境の整備、防災施設の整備など多くの進展が見られました。また、原発事故により避難を余儀なくされた地域においても、帰還して生活を再開できる地域が少しずつ広がってきております。多くの悲しみや困難の中にあった子どもたちも、未来に向けてたくましく成長しています。
しかし、その一方では、今なお多くの被災者が、被災地で、また、避難先で、依然として不自由な生活を続けている厳しい現実があります。とりわけ、帰宅可能な地域が広がる中、いまだに自らの家に帰還する見通しが立っていない人々も多いこと、基準に照らして放射線量の問題がない場合であっても、農林水産業などに影響が残っていることを思うと、心が痛みます。さらに、避難生活が長期化する中で、高齢者をはじめとする被災者の心身の健康のことは、深く心に掛かります。
困難な状況にいる人々、一人一人が取り残されることなく、健やかで平穏な生活を送ることができるよう、また復興の歩みが着実に進展していくよう、これからも国民が心を一つにして被災した地域や人々に末永く寄り添っていくことが大切でありましょう。
東日本大震災の大きな犠牲の下で、私どもは日ごろの防災訓練や防災教育、そして過去の災害の記録と記憶の継承がいかに大切であるかを学びました。この教訓を決して忘れることなく、私たち皆が防災、減災の心を培うとともに、それを次の世代に引き継ぎ、災害の危険から多くの人々が守られることを心より願っております。
今なお困難を背負いながらも、復興に向けて日々努力を続けている人々に思いを寄せ、一日も早く安らかな日々が戻ることを皆で祈念し、御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。
◆安倍晋三首相の式辞 全文
本日ここに、秋篠宮同妃両殿下のご臨席を仰ぎ、「東日本大震災7周年追悼式」を挙行するに当たり、政府を代表して、謹んで追悼の言葉を申し上げます。
かけがえのない多くの命が失われ、東北地方を中心に未曽有の被害をもたらした東日本大震災の発生から、7年の歳月が流れました。
最愛のご家族やご親族、ご友人を失われた方々のお気持ちを思うと、今なお哀惜の念に堪えません。ここに改めて、衷心より哀悼の誠をささげます。また、被災された全ての方々に、心からお見舞いを申し上げます。
7年の歳月が流れ、被災地では復興が一歩ずつ着実に進展しております。地震・津波被災地域では、生活に密着したインフラの復旧はほぼ終了し、住まいの再建も今春までに9割が完成する見通しであります。
原発事故によって大きな被害を受けた福島の被災地域では、避難指示が順次解除され、また、帰還困難区域においても特定復興再生拠点の整備が動きだしました。
しかしながら、今なお7万人を超える方々が避難され、7年間にも及ぶ長期にわたって不自由な生活を送られている方もいらっしゃいます。ふるさとに戻る見通しが立っていない方々も数多くおられます。
被災者お一人お一人が置かれた状況に寄り添いながら、今後とも、避難生活の長期化に伴う心の復興や心身のケア、生活再建のための相談に加え、新しいコミュニティー形成の取り組みなど、生活再建のステージに応じた切れ目のない支援に力を注ぐとともに、原子力災害被災地域における帰還に向けた生活環境の整備、産業・なりわいの再生支援など、復興を加速してまいります。
同時に、震災による大きな犠牲の下に得られた貴重な教訓を、胸に刻みながら、英知を結集して、防災対策を不断に見直してまいります。政府一丸となって、災害に強い、強靱(きょうじん)な国づくりを進めていくことを、改めて、ここに固くお誓いいたします。
震災の発生以来、地元の方々のご努力をはじめ関係する全ての方々の大変なご尽力、全国各地からのご支援に支えられながら、復興が進んでまいりました。本日ここにご列席の、世界各国・各地域の皆さまからも、多くの、温かく心強いご支援をいただいています。心より感謝と敬意を表したいと存じます。
災害との戦いは、世界共通の課題です。東日本大震災の教訓とわが国が有する防災の知見や技術を皆さまの国・地域の災害被害の軽減に役立てていくこともまた、われわれの責務です。今後とも、防災分野における国際貢献を、一層強力に進めてまいります。
わが国は、幾度となく、国難と言えるような災害に見舞われてきましたが、その度に、勇気と希望をもって乗り越えてまいりました。今を生きる私たちも、先人たちに倣い、手を携えて、前を向いて歩んでまいります。
御霊(みたま)の永遠に安らかならんことを改めてお祈り申し上げるとともに、ご遺族の皆さまのご平安を心から祈念し、私の式辞といたします。
◆遺族代表の言葉 全文
母の笑顔、今も脳裏に 岩手県代表・磯崎一元さん(73)
あの日、平成23年3月11日午後2時46分に地震が発生し、釜石で1人暮らしていた90歳の母親を亡くしました。
当時、東京で暮らしていた私は、仕事中で、かなりの揺れを感じました。震源が三陸沖と知り、母に連絡を取ろうとしましたが、連絡が取れません。すぐに安否確認に向かいたかったのですが、交通まひ状態が続き、釜石に到着したのは、それから1週間後のことでした。
避難場所を回り捜しましたが見つかりません。自宅はがれきの山で、足がすくむほどでした。ここにはいないと思いましたが、つい「おふくろ、おふくろ」と叫んでしまいました。
翌週、弟妹たちと自宅付近を捜索しましたが、見つかりません。自衛隊にご協力いただき、自宅を捜索していた時に災害本部より連絡があり、近くの安置所で、顔右側にかすり傷、その他は無傷状態で今にも起きそうな顔色の母に対面しました。3月28日午前11時20分でした。愛用の腕時計を遺品として受け取りました。
震災の前の年に釜石で父親の十三回忌を行い、子ども、孫、ひ孫総勢25人で母90歳の卒寿をお祝いしました。その時の母のうれしそうな笑顔が脳裏に焼き付いています。
震災の年、8月のお盆を目安に私と女房と2人が釜石に戻り3人一緒に生活する計画をしていましたが、かないませんでした。
毎年3月の釜石市主催の追悼式と8月のお盆には帰っていましたが、今年、お墓を改葬しました。今後は近くで両親を見守っていこうと思っています。3月11日の午後2時46分のことは決して忘れないようにして。
最後に、さまざまなご支援をいただいた方々に感謝申し上げますとともに、東日本大震災で犠牲になられた方々のご冥福をお祈りし、遺族代表の言葉とさせていただきます。
岩手県釜石市出身の磯崎一元さん=東京都葛飾区=は、母咲子さんを津波で亡くした。政府主催の追悼式には、背広の胸ポケットに笑顔の母の写真をしのばせて臨み「あの日を決して忘れない」と力を込めた。
震災発生時、磯崎さんは、東京で清掃の仕事中だった。母は笑顔の似合う人だった。子どもたちの誕生日にはチラシの裏に書いた手紙を欠かさず届け、卒寿の祝いには子どもや孫、ひ孫25人が集まった。
前日は咲子さんと父の結婚記念日。いつものように、お祝いの電話をかけた。「最近そっちで地震が多いから気を付けて」。「大丈夫、大丈夫。心配し過ぎだよ」。それが、最後の会話になった。「親孝行ができなかった」と磯崎さん。今も毎朝仏壇に手を合わせる度に涙がにじむ。
生かされる幸せ実感 宮城県代表・小野寺秀俊さん(69)
あの日、私は仙台で用事があるために、午後、妻と車で出かけました。「行ってきます」「行ってらっしゃい。気をつけてね」。それが最後の言葉になるとは、思いもしませんでした。父は翌日、自宅のがれきの下で見つかり、母は4月に不明者の中から、娘が見つけてくれました。
震災の後、両親の故郷に近い、みなし仮設に移りましたが、そこで、両親に縁のあった方々に、助けられてさまざまな支援をしていただきました。そんな時、おやじの子どもで良かったと、何度も涙しました。現在は縁あって松島町に住んでいますが、毎朝庭先にスズメの親子がきてだんらんのおしゃべりをしています。そのほほ笑ましい光景を見ながら東を望むと、野蒜(のびる)のことが思い出されます。
朝ご飯の時、みんなで「いただきます」「ごちそうさまでした」と手を合わせた、何でもない普通のことが、本当に幸せで大事なことだと、震災後いつも感じます。震災後に結婚した娘に、両親の生まれ変わりのように女の子と男の子が生まれました。その孫が来ると、決まって両親にお参りします。まだ小さいので、震災のことは理解できません。時期が来たら話して伝えていきたいと思います。
震災は私の人生で、とてつもない試練でしたが、元気で頑張ることがお返しと思い、地域で、小さいながらも自分でやれることを始めました。町内会の役員、観光ボランティアガイド、地域イベント活動、シニア・初心者の方を対象に、災害時にも役に立つ、スマホの講座もしています。
昨年までは海を見ると、心が落ち着きませんでしたが、今年の元旦には、震災後初めて野蒜海岸に行き、波打ち際で初日の出を見ることができて、輝く太陽と波の音が気持ちを新たにしてくれました。
いろいろな方々のおかげで今の私があり生かされています。ありがとうの言葉を胸に、宮城の自然と共存しながら、地域の皆さまと共に支え合い一日一日を大事に前へ進みます。
結びに、亡くなられた方のご冥福を心からお祈りし追悼の言葉といたします。
津波で両親を失った宮城県松島町の自営業、小野寺秀俊さんは、震災を機に地域活動に携わるようになった。「地域の皆さまと共に支え合い一日一日を大事に前へ進みます」
東松島市野蒜にあった当時の自宅に両親を残し、妻恵子さん(64)と仙台市にいたとき、震災が起きた。翌日、やっとの思いで帰宅。被災した自宅1階のがれきの中から見慣れた黄色い手袋が見え、のぞき込むと父研耕さん(当時84歳)の顔があった。遺体安置所を幾つも回り、母貞子さん(同82歳)に会えたのは2011年4月1日。前日夜、夢に現れ「今日は見つかるのでは」と期待していた。
元々人前で話すのが苦手で、地域活動に参加することはあまりなかったが、震災後はボランティアや町内会にも関わるように。何かをしていないと、あの日に戻されるような思いもあった。
教訓、後世に伝えたい 福島県代表・五十嵐ひで子さん(70)
あれから7年の月日がたちました。
もう7年なのか、いやまだ7年なのか、心の中で、いくら考えても導かれる答えが出てきません。そうだよね。想像などできない、あの絶望のふちに立たされた悲しみ、いたみ、そして傷つき、ただぼうぜんとしていましたから。
震災当時、私たち家族は相馬市の海沿いで民宿を営んでいました。
あの日、大きな地震とともに、電気が切れ、全ての情報が途切れました。
消防団の方から「今、岩手・宮城にすごい津波が来ているから早く逃げてください」と言われましたが、何回も海を見に行き、すぐには逃げませんでした。
消防団の方に促され、私は夫と叔父の3人で避難を始めた直後、大きな津波に襲われました。波に体を4メートルくらい持ち上げられ、隣の家の松の木につかまりましたが、波はどんどん押し寄せ、一緒にいた叔父が私の手から離れていき、夫も私から離れていきました。夫は「ひで子ー」「ひで子ー」「ひで子ー」と3度叫び、それに応えて、私も夫の名前を叫びましたが、返事はありませんでした。壁のように高く、真っ黒な波が私をのみ込んで、そのまま800メートルくらい流され、気付いた時にはがれきの中でした。「助かったー」。でも寒さで、身も心も凍るほどでした。意識が遠くなりそうな時、消防団の皆さんに助けられて、気付けば病院のベッドの上でした。
あの時「父ちゃん、早く逃げっぺ」の言葉さえ言えていたらと思うと、自分を責める気持ちでいっぱいでした。
そんな思いが消えないまま1年がたったころ、「貴重な教訓として語り継いで」と誘われ、現在、語り部として活動しています。この震災を風化させず後世に伝えるため、「自分の命は、自分で守る」「逃げる意識」を伝え続けていきたいと思います。
最後に、本当に7年なのですね。全国の皆さんからいまだ勇気をもらい、励まされ、一歩ずつ前に進んでいます。この震災で学んだことは、忘れてはいけません。亡くなられた方々の安息をひたすら祈念し、追悼の言葉といたします。
福島県相馬市で民宿を経営していた五十嵐ひで子さんは、津波で夫の利雄さん(当時67歳)を亡くした。民宿は海水浴場の目の前にあり太平洋を見渡すことができた。海の幸が自慢で年中にぎわった。
震災当日、ごう音と共に激しい揺れが襲った。利雄さんは「逃げろ、ここは俺が守る」と避難を促したが、ひで子さんも残り、割れた皿を片付けていた。避難しようとすると、もう津波が迫っていた。あっという間に体が浮き上がり、何とか隣家の松の木につかまったが、真っ黒な波がどんどん押し寄せ、利雄さんは流された。あの時、名前を呼んでくれたのは「おまえだけでも助かれ。人の役に立て」と言いたかったのだと思う。夫の思いと共に、これからも伝えていく。

天皇、皇后両陛下は、陛下の定例健康診断のためにそろって訪れていた宮内庁病院で、発生時刻に合わせて黙とうされた。宮内庁侍従職が明らかにした。
両陛下は発生5年の節目だった2016年まで、政府主催の追悼式に毎年出席していたが、昨年からは、秋篠宮ご夫妻が足を運び「お言葉」を述べている。
発生10年の節目となる21年には、新天皇、皇后となっている皇太子ご夫妻の出席が検討されることになるという。